転妻カラス

低収入転妻の苦労、倹約、労使・貧困問題についてぼやくブログ

死ぬ時期を自分で選べるとしたら

おおっぴらに口にはしなくても、この記事に関心を持つ読者は少なくないと思う。

 

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転妻カラスも、「死ぬ時期を自分で選べたら、逆に人生が豊かになるんじゃないかな」と考えている一人。

 

いつまで生きるかわからなければ、貧乏が怖くてビクビクして、やりたいことが結局できない。

 

「なるようになるのよー、好きなように使って生きたらいいのよー、アハハ」

 

と楽しく生きていた奥様が、一文無しになり底辺生活に転落した例も身近に知っていて、

 

長く生きるなら、先のこともある程度は考え、貯金を守らなきゃならない。

 

だいたい、日本は住宅費、保険、税金ともに高過ぎ、普通に生きるコストがバカ高い。

 

海外はどうかと少し調べたが、海外もやっぱり高くて、日本が特別バカ高いというわけでもなかった。

 

庶民はどこで生きても、死ぬまで高いコストを払い続けるのに汲々とし、自分の好きな食べ物やお洒落や趣味や遊びにかけられるお金なんてわずかだ。

 

体力と気力の衰えを痛感する中年として、自分の将来を考えるとき、

これ以上衰えた状態になり、認知症などにもなり、

「いつまで自力で生きていけるだろう」なんて心配をしながら、毎日ゼエゼエ愚痴ばかりこぼして長生きするのは辛いなぁと思う。

 

昔みたいに、だいたい70、だいたい80という目安があったほうが、心安らかに楽しく暮らせるような気がする。

 

誰でも命に執着があるから、こんな転妻カラスも、歳をとればとるほど、一秒でも長く生きたいと思うようになるだろう。

 

でも、それは幸せなんだろうか。

 

結婚当初から舅姑と25年同居してきた専業主婦の友達がいる。

 

封建的な地域で育ったので、彼女は昔ながらの従順な嫁として、舅姑に仕え、姑は病で見送った。

舅は90過ぎた今も健在だ。

 

問題は、彼女に何の権利もないことで、

家の商売を手伝っているにも関わらず、家族の食費や光熱費を渡されるだけ、

友達とランチやお茶に行くなんてもってのほか、

息抜きは子どもの学校役員になったときに会議に出るくらい、でも、ママ友のランチ会には行けない、

結婚後の旅行は、夫と日帰り旅行を一、二度のみ、

という生活をしている。

 

封建的な考えの舅が、家族の行動にすべて規則を設けて、部下のように従わせているからだと言う。

家の商売も舅が起こしたもので、彼女と夫は言われるがまま働かされている。

 

せめて、服や化粧品くらい自由に買えるお金があればいいが、舅は究極のケチだそうで、

本当に低収入サラリーマン家庭くらいのお金しか使えないらしい。

 

舅が亡くなれば、せめて友達とお茶に行く自由くらいできるかも。

そもそも、彼女の友達は、そんな生活のせいで、ほとんど切れてしまったのだが。

 

その舅が100歳超えても生きるかもしれない?

その前に私が死ぬかもしれない。

だとしたら、私の人生は奴隷のようなものだと、彼女は言っていた。

 

それを選んだのはあなただと、転妻カラスは言いたくない。

20代で好きな人と結婚するとき、舅がそれほど絶対的権力を持ち、これほど長生きするなんて、予測できたはずはない。

25年前、90過ぎて長生きする老人は、かなり珍しいほうだった。

舅姑は自分より早く亡くなると予測がついた。だから、孝行しておきたい。

そう思うのが人情ではないだろうか。

 

私は愛する人の親のために我が身を犠牲にするのが幸せだわ。

 

なんて考えてる女も世の中にはいるかもしれないが、極少数だろう。

たいがいの女性は、自分自身の楽しみも少しは得たいと思うものだ。

彼女のような状況であれば、舅姑が亡くならない限り、日々の買い物に行くのも舅の顔をうかがい、時計を見ながら駆け戻る生活。

人の寿命が70年、80年で終わるなら、彼女も苦しむことなく、現状を受け入れられたかもしれない。

ところが、90、100、110と、舅の歳が伸びるたびに、彼女の自由は、20年、10年、数年、数ヶ月と短くなる。

私の人生は舅姑の権力を満たすためだけのもの?

最期にそう思いながら死ぬなんて、死んでも死きれないかもしれない。

 

長寿がめでたいと言われたのは、人生50年だった時代の話だ。

今の長寿は限界にきている。

人は死ぬべきときに死ぬべきではないだろうか。

天から与えられた寿命以上の命を望むのは、本人も幸せではない。

少なくとも転妻カラスはそうだ。

 

自分がその舅の立場だと考える。

歳をとったから子供たちの勝手にせよとは、なかなか言えないかもしれない。

その結果、長寿を喜ばれなくなるのは悲しいことだ。

死ぬべきときに死に、いいおじいちゃんだったねと、思い出してもらえるほうがいい。

どうせいつかは必ず死ぬのに、誰かを悲しませてまで長くなが~く生きるなんて嫌だ。

 

これまでの常識は、60,70の寿命を、80,90に伸ばす考え方だった。

そこで止めておくのがいい。

もしも死ねなかったら。その不安の方が死ぬより恐怖だ。

死ぬ時期を自分で選べるのなら。

最期の不安はなくなるだろう。

そういう考え方で安楽死をとらえるなら、自殺ではないと思う。

 

天はどう考えるだろう。

長過ぎる命が人の傲慢だとしたら、死期の調節については、自殺とは言わない気もする。

 

橘氏のサイトに書かれているように、ヨーロッパにならって、医師による安楽死システムが導入されたら、それを選べるのはやはり金持ちだけに違いなく、本人の意思が尊重されるかどうかも怪しく、運用は難しいだろう。

 

ただ、橘氏のように考え直す視点も必要ではないだろうか。

 

命が限りあることをもう一度思い出して、謙虚に受け止める時代になっていると思う。

 

そうすれば、逆に老人が排斥されることもなくなるような気がする。